毎年のように大量に選手が移籍する山口。今季のチームでも最古参の選手は所属4年目という現実が示すように、タレントの定着が難しい。ただ、野心的なサッカースタイルを掲げ、チャレンジを恐れない哲学は一貫している。人が変われども、クラブが失ってはいけないスピリットだ。
今から7年前の6月。まだJFLにさえ到達していなかった山口は、訃報に天を仰いだ。2013年6月9日、病床についていた前GMの宮成隆氏が亡くなったのだ。
宮成氏は県教員団を改組して06年に発足した「レノファ山口FC」の初代監督に就任。当時はまだ地域リーグを戦う一介のアマチュアチームに過ぎなかったが、宮成氏は「山口にJリーグチームを作る」という一心で基盤作りに尽力する。10年には教員職を辞し、不退転の決意でクラブの強化に専念。12年に退任するまで第一線に立ち、厳しい顔で勝負に徹する一方、その人柄は「ミヤさん、ミヤさん」と慕われ、当時は夢物語でしかなかったJリーグへの道に多くの人材を引き込んだ。