いまから70年以上前の1951年(昭和26年)5月6日、日本国有鉄道自動車局(国鉄バス)が長小野(ながおの)線という小さなバス路線を創設する。「佐々並」から現・山口県道309号を南西に下って、山間の小集落「長小野」に向かう路線だ。
起点となる佐々並(当時佐々並村。旭村を経て萩市)に国鉄バスが通じたのは1933年(昭和8年)にさかのぼる。同年3月23日、国鉄バスは三田尻(防府)~山口間の三山(さんざん)線を延長し、東萩(東萩駅)までのバス路線を開設、全体の路線名を防長線と改称した。これによって古くから宿場として栄えていた佐々並は重要な経由地となった。
その10年前の1923年(大正12年)には鉄道の山口線が全通しており、国鉄は山口を扇の要として、「/」の形に伸びる鉄道と、「\」の形に走るバスによって、この地区でX字形の陰陽連絡路線網を完成。戦後間もない1946年(昭和21年)、国鉄バスは防長線を「防長本線」へと『格上げ』すると同時に、山口線と美祢線の各駅を短絡する「秋吉線」を開設。その後は二つの幹線にいくつもの支線を創設していった。
1951年(昭和26年)に長小野線(佐々並~長小野)を開通させると、53年に長小野線途中の中の原から分岐して古戦場に至る支線と佐々並から下長瀬に至る支線を創設。55年に防長本線の八反田から梨羽(山口市上小鯖)に至る支線、56年に同じく八反田から稔畑(うつぎはた)に向かう支線などを次々と開設する。また1952年には長登・喜多平鉱山近傍に至る貨物用の路線も設けている。
鉄道辞典(1958年)によると防長本線に設けられた支線は計8本。このうちの大半は路線名を持たない『無名の支線』であるが、佐々並~長小野間は「長小野線」、小郡~喜多平間は「喜多平線」という名称が付けられた。
鉄道辞典による防長線の表記
防長本線 三田尻~東萩 68km
三田尻~防府競輪場前 3km
八反田~梨羽 4km
周防松尾~梨羽 3km
八反田~捻畑※ 6km
佐々並~下長瀬 3km
長小野線 佐々並~長小野 10km
中の原~古戦場 7km
喜多平線 小郡~喜多平 24km
(鉄道辞典下巻,1958年,国鉄)公開=公益財団法人交通協力会
※稔畑の誤記とみられる
ただ喜多平線は貨物専用であったほか、防長本線との接点がなかったので、何らかの事情でやむを得ず支線扱いで開設したに過ぎないと思われる。言い換えれば、旅客路線では「長小野線」だけが特別扱いを受けていたことになるが、これは何を意味するのだろうか。
支線開設時に路線名を付けられたものは、後に本線級の扱いを受けるものもある。防長本線の支線のような位置付けから幹線へと発展した秋吉線が好例だ。もしかしたら、国鉄バスは佐々並を起点に、長小野を経由して美祢市の主要地区(秋吉、美祢(吉則)、大田など)を結ぶ幹線級路線を考えていたのかもしれない――。
そんな路線には「才治郎口」というバス停があり、2011年にバス停の現存を紹介するレポートがインターネット上に載っていた。
名称も不思議なバス停であるが、標柱に「国鉄バス」という文字が読み取れることにも新鮮な驚きがある。ただストリートビューではかなり朽ち果てていた。すでに撤去された可能性もあるが、現況を確かめたく、ロードバイクを駆る @shimoxxさんに相談すると、先週末、さっそく自転車で峠越えをして当地に挑んでくれた。
twitterでの報告の通りで、バス停は標柱の片割れがまだ寂しげに立ち、残りの大部分も倒れたままそこにあった。
歴史にも詳しいsimoxxさんは、私に寄せてくれたメッセージで「1973~75年の空中写真でバス停の前に建物がある。この建物は1960年代の写真には見られず、1990年代の写真では撤去されているようだ」と指摘。「才治郎谷は礫だらけで人が住んでいたとは思えない」とも推察し、70年代~80年代頃にのみ存在した建物のためにバス停があったのではないかという「仮説」を立ててくれた。
実際に建物が写った航空写真は国土交通省地図・空中写真閲覧サービスで確認できる(リンク先を参照)。ちょうどこの頃、佐々並川に流れ込む河川でやや規模の大きな治山工事が行われていたようで、現行の地理院地図でも確認できる砂防堰堤(砂防ダム)が造設されている。建物も現地事務所や宿舎であった可能性がありそうだ。
謎はいくつもある。一つは「長小野線」には延伸、拡大という壮大な夢があったのか。さらに、「才治郎口」や「火の原」という気になるバス停名の由来も謎めいている。火の原は古い地形図にも表記があるが、由来は現時点では不明。佐々並村史、旭村史、萩市史などをあたってみたいと思う。