踏切越しに海が見える。写真は福江駅(下関市)の近くで撮影した。山陰本線の単線が横たわり、その向こうに響灘が広がる。
海に誘う下り坂と、逸(はや)る気持ちを抑えようとする赤色の明滅。鎌倉市の日坂が有名だろうか。日本のそこらじゅうにありそうな風景だが、意外と見つからない。
ここは福江駅の南側に接する中山踏切。線路と直交している1車線の狭い道は、ゆるやかな下り坂だ。
インスタグラムに載せたところ意外と反応があったので、noteにも載せてみたというのが本投稿のいきさつ。つまり、写真を出した段階で目的は果たされた。今日の投稿は出オチ。このあとの本文はそれほどの意味を持たない。
福江駅が開設されたのは長州鉄道・東下関-小串間の開業と同じ1914年(大正3年)。1936年(昭和11年)の地形図ではっきりと道路と線路の交差が確認できることから、中山踏切も当初からあったものと思われる。その時代から警報機や遮断機を備えたものであったかは分からないが。
日本の鉄道の多くは、海沿いに線路を敷いてきた。
鉄道というのは坂道に弱い。アメリカ中西部のように平坦であれば街と街を直線的に繋いだのであろうが、起伏に富んだ日本では、トンネルや橋といった大規模な土木の力を借りなければ最短コースで都市同士は結べない。新幹線時代になってそれは可能になったが、鉄道黎明期は平坦な場所を縫うように鉄道網が造られていった。
海沿いは標高が一定で、航路との連絡にも都合が良い。用地買収が容易だったことも一因に挙げられ、明治から大正にかけて海岸伝いに線路が延伸。鉄道網だけを抽出しても日本の輪郭がくっきりと浮かび上がるまでに発展した。