『睡蓮の長いまどろみ』は宮本輝氏執筆の長編小説。主人公の一人に強烈なスポットライトを当て、彼に至る夥しい因果の糸を解きほぐしていく。
いま起きていることは、すでに宿命による決定事項なのだろうか。原因が発生した瞬間に結果もすべて決まり、道中にどう抗っても、それは変えられないものなのだろうか--。目を背けたくなるような、ねっとりとした因果が、小説世界全体を覆う。
主人公は世良順哉という40代前半の男。一見した限りでは、家庭もあり、収入もそれなりにある中堅中流のサラリーマンだ。言うなれば普通の男。宮本輝氏の作品群には人間関係の根底に眠る「普遍的な糸」に触れる作品が多く、読者の感情が入り込めない偏屈なヒーローはいらない。
その普通の男たる世良順哉だが、物語でキーになる他者との違いが二つある。いずれも作品冒頭に出てくるため、二つを明らかにする部分は引用しても差し支えないだろう。
まず、出さずじまいの封書に関し、「四十二年前に夫と離婚し、まだ赤ん坊だった息子の順哉を捨てた母に送るつもりで宛名を書いた」とある。ここからは世良順哉が母から「捨て」られて、実父や継母に育てられたことが伺える。そして母には会えないでいるが、どこで何をしているかも世良順哉は分かっている。
解きほぐされていく夥しい因果の糸
次に同じく冒頭部分に出てくるこのくだり。「自分の中に棲むひとりの女に快楽を与え続けなければならないと割り切ったはずなのに」--。これは世良順哉の中に女性性が宿っていることを示唆しているが、今で言うところのLGBTの括りというわけではなく、世良順哉自身もなぜ己の中に女がいて、その正体が何であるかを掴めないでいる。この作品は、世良順哉が母を探し、あるいは「ひとりの女」の正体を暗がりから捜し求める旅とも言えるが、根は深い。
作品冒頭ではセオリー通りに登場人物の簡単なバックグラウンドが紹介される。そうして作品がこれから深まっていくというタイミングで、世良順哉に「さよなら」と言い残し、若い女がオフィスビルから飛び降り死亡する。世良順哉にとっては縁のない女にもかかわらず、彼女ははっきりと「さよなら」を告げる。それも世良順哉ひとりにだけ。
なぜ若い女は世良順哉に「さよなら」を言わねばならなかったか。物語はこれを嚆矢に、いよいよ世良順哉の出自、母が息子を捨てた理由、いくつもの生と死の中にある糸(因果)が明らかになっていく。
宮本輝氏は題名を「睡蓮の長いまどろみ」とし、作品中、睡蓮や蓮(はす)が何度も出てくる。それは長い眠りの果てに泥土に根ざし、泥に生まれたとは思えぬ美しい花を咲かせ、また枯れていく、古来からのモチーフだ。決して美しいだけの花ではないことは、宗教美術の題材になっていることからも分かる。
あらがえぬ宿命の前に佇む者たちの無常観や諦観が、蓮の池に漂う
蓮は花と実が一緒に生じることから、「原因と結果が常に同時にそこにある」という因果倶時(いんがぐじ)を示し、作品の一貫した思想になっている。世良順哉は生まれた瞬間から、母が自分を捨てることも、目の前で女が飛び降りることも決定づけられていたのかもしれない。もしそれが因果倶時の運命ならば、何と悲哀に満ちた生き様だろう。世良順哉(や読者)はこの「因」と「果」を切り離すことはできるのか。連綿たる糸は断ち切れるのか。あらがえぬ宿命の前に佇む者たちの無常観や諦観が、蓮の池に漂う。
小説は1997年から3年半にわたって「文學界」に連載され、作品世界も90年代後半。作品解説の辻井喬氏(1927-2013年)が指摘しているが、阪神淡路大震災や作家自身のシルクロードの旅が情景にいくばくかの影響を与えているだろう。
情景の暗さに慣れてくると、世良順哉の背負う因果の根が見えてくる。宿命は受け入れるべきか、戦うべきか。初出から約20年、現代にこの作品を読む意義は大いにある。
文庫:
文春文庫(上下とも各533円=本体価格)
2003年10月10日発行
カバー:ナイル川の洪水(パレストリーナ考古美術館蔵)
カバーデザイン:関口聖司
連載:「文學界」1997年~2000年
単行本:2000年10月,文藝春秋