ギラヴァンツ北九州は2年目となったJ3リーグでの戦いを、最下位で終えた。
評価のしようがない1年間だった。
柱谷哲二監督になってプロ根性を叩き込んだが、新指揮官はメンタルとフィジカルの強化に注力し、戦術には時間を割けなかった。練習メニューにもキャンプで見るようなものがあり、そこから見え隠れするのは19年シーズンも視野に入れていた強化策だった。契約満了は寝耳に水だったかもしれない。
夏を前にすでに大型補強をしていたため、柱谷監督に変更したときには補強に割ける予算はゼロ。自前の選手を強くするよりほかに道はなく、守備こそ安定させたものの、ケガがちなFWの力を十分に高めることはできなかった。
クラブのビジョンは未だに見えない。
シーズンが始まる前、ギラヴァンツはトータルフットボールへの回帰を宣言した。全員守備、全員攻撃で走り勝つというものだ。ところがJリーグ時代に堅守速攻でチームを作っていた森下仁之監督を指揮官に招へい。決定自体も遅く、強化は佐野達GMが担うことになった。トータルフットボールができる選手を揃えつつ、それ以外の引き出しを持つ監督を呼び、その後はダヴィやフェホなどを補強してトータルフットボールとは言いがたいメンバー構成に。ちぐはぐさは極限に達した。
主因はどこにあるのか。2012年と13年まで遡れば、見えてくるものはある。
12年はイエローカードを食らってでもリスクを冒して攻撃的なサッカーで戦った。戦術的に言えばトータルフットボール路線。ギラヴァンツはこのときが総合力としては最も高かったが、反則ポイントの増加を重く見たクラブは、次の柱谷幸一監督にフェアプレーの徹底を求めた。
これによって与那城ジョージ監督、三浦泰年監督と続いていたコンパクトに前向きに戦うという戦術を転換。堅守速攻型にシフトする。ここでの安易な方向転換が、クラブにビジョンが存在しないことを示した。一時はプレーオフ圏内(※当時はJ1ライセンスが得られず不出場)に入るも、16年に最下位に転落しJ3降格。17年、18年ともにサッカーの路線は揺れ続けた。
冒頭で評価のしようがないと書いた。もしクラブの方針がしっかりと立っていたならば、戦績だけでなく、それに沿っていたかどうかというポイントからも善し悪しを語れただろう。しかし、軸がないのであれば、どこをどう評価していいのかが分からない。もちろん成績だけで言えば最悪だ。だが、成績が伴わなかったとしてもそれが上昇するための痛み、成長痛ならば戦績はあえて語らなくてもいい。フィロソフィー(哲学)があるのであれば。
ギラヴァンツはJリーグ参入から9年の月日が過ぎようとしている。来る年は10年目のシーズン。何を目指し、どうクラブとして、チームとして、一心に戦うのか。見て見ぬ振りをしていたのかもしれない足元を直視する時期が来ている。